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北の都にかつてあった、ある女子寮の記録と思い出

はじめに(本ブログの説明)

<2024.01.10>

◆当ブログは、管理人が2000年代半ばから4年間を過ごした、とある国立大学女子寮(2023年3月末をもって廃寮)についての思い出や記録を整理・公開しています。

◆当時に関する資料が殆ど手元になく、自身の記憶を裏付けるすべが過去書いた日記やブログ記事の記述、写真などに頼っているため、細かい事項(時期、名称、場所など)に誤りがある可能性があります。なんとか正確に綴ろうと考えていますが、裏付けとなる資料の乏しさから、誤りのまま公開されている記事もあろうかと思います。

お気づきの点があれば、指摘いただければありがたいです。

◆ゆくゆくは、以前撮影した寮内の写真などもアップしていきたいと考えています。

◆なお、記事タイトルの先頭のナンバーは、個人備忘録の記事番号です。

77 寮祭について(1)当日外企画

寮祭本番の数週間前の土日を利用して行われる、女子寮生だけのレクリエーション企画は、当日外企画と呼ばれた。

わたしは確か当時この部局に所属し、2回生に上がった時はサブチーフを務めた。

大したインパクトのない行事なので正直記憶があいまいなのだが、大きく分けるとこの企画で行うことは「レクリエーション」と「餅つき大会」だった。

(1)レクリエーション

近隣にある市民体育館を借りて行う。大体は温和な、体育の授業みたいな内容だった。鬼ごっことか、ドッジボールとか、多人数で出来てそれなりに体を動かす内容なら制限はなかったと思う。

 

(2)餅つき大会

こちらの方が記憶が鮮明だ。

朝から午後いっぱいかけて行う行事だったので、(1)とは別日に行ったはず。

事前に部局員がもち米や各種シーズニング(きなことかあんことかごまとか)、ペットボトル飲料、紙コップ、紙皿などを買い出ししておき、当日朝に炊き上がるように部局員の手持ちの炊飯器を総動員してもち米を炊いた。当時は1人1つ炊飯器を持っているのが当たり前だったが(余談だがわたしは2回生の春になるまで買ってもらえなかった、1年間どうしてたんだ…)、いかんせん、3合炊きの可愛らしいサイズばかりなので、部局員が総出で炊く必要があった。

朝、準備をして部屋を出ると、自炊室からぷあんと香ばしい炊きたてのもち米の甘い香りが廊下まで漂っていて、幸せな気持ちになったことを思い出す。

 

餅つき大会なので、1,2回生が協力してもちを搗く。部局員が中心となってもちをひたすら搗き、他の参加者たちはもっぱら食べる側である。

わたしは搗きたてのおもちがたくさん食べたくて、つい手がおろそかになってしまった。

臼と杵は2台あり、1台は北溟寮から貸してもらった。搗いたおもちは小さくちぎって分け、用意した味付け(または参加者が自前で持ってきたもの)で食べた。食欲旺盛な若い女の子たちなので、もちはすぐになくなってしまう。

借りてきた方の臼が壊れかかっていて、そちらの臼で搗いたお餅には細かい木くずがたくさん混じってしまい、食べるときに友達と大笑いしながら指でほじくって取り出しながら食べたのも、今は良い思い出である。

 

 

77 寮祭について(1)組織と概要

寮祭実行委員会

寮祭を開催・運営するにあたり、寮祭実行委員会というものが編成されていた。

これは寮規約にも明記されている正式な委員会であった。

実行委員会のツートップとして、委員長及び副委員長という役割があり、その下に催しや役割ごとに仕事を進める部局というものが置かれ、各部局ごとにチーフとサブチーフが置かれた。

委員長、副委員長、チーフ、サブチーフは、2回生が就いた。

なお、各部局のチーフとサブチーフは、先輩主導で下級生を指導するという意味もあり、前年開催時に当該部局に所属していた1回生から選出された。

私が在寮していた当時、すでに寮生数が減少の一途をたどっていたこと、1回生から2回生に上がる春に結構な人数が退寮してしまうこと、実行委員会以外にも寮の自治を担う執行委員会メンバーも主に2回生が担う必要があったことなどの理由から、殆どすべての2回生が何らかの役職を担っていた。

任命時期は、新歓期間が終わった4月末ごろ。

そこから半年かけて、11月の開催を目指し、実行委員会は数々の仕事を下級生たちとともにこなしていくことになる。

 

※注※

寮祭は、長い寮の歴史の中で、時代ごとに色々に形を変えてきたと思われる。そのすべてを網羅的に記述することは難しいので、自分自身が体験した2006年~2007年に開催されたものに対象を絞り、記述していくこととする。

各部局の名称、主な役割

手作りの学生イベントであったため、大掛かりな準備や人手のいる作業は、役員全員で取り組むことも少なくなかった。

当日外企画

○本祭の1~2週間前の休日に行うイベント(寮の食堂での餅つき、近隣の体育館を借りてのレクリエーション)などを担当。

 

前日企画

○前夜祭を担当。夕食会、おみこし担ぎと練り歩きの誘導。

 

当日企画

○当日祭の運営と進行を担当。当時の主なタイムテーブルは、一年生のダンス出し物、ミス女子寮コンテスト、バンド演奏、ディスコ。

 

ディスコ

○当日祭のメインイベントである「ディスコ」を担当(どんなイベントかは別途立項、記述する)。当日使う音源に使う曲の選定、テープの編集などを行うのだが、これが結構難事業なのであった…。

 

情宣

○ほのかに学生運動の香りのする名称だが、要は宣伝とグッズ担当。寮祭Tシャツを作成したり、近隣のスーパーや施設に貼り出す寮祭のお知らせ(一応、地域に開かれた祭で、学祭と同じく一般客の出入りも想定されていたのだが、結局来るのはOBOG、元寮生などの寮関係者だけであった)を作成する。

【朗報】寮内の書類及び物品、備品等が大学資料館に寄贈されていた

朗報

 去年の春、惜しまれつつも廃寮となったH寮とS寮。その施設内に残されていた物品等が、最後の寮生たちの手によって大学資料館に寄贈されていたようだ。

 本当にホッとした!

 廃寮までの数年間、もし廃寮まで何もしなかったら、内部に残された書類などのレガシー(主に会議や寮祭の記録書類等)はどうなるんだろうと、外野ながら気をもんでいた。現在の在寮生にコンタクトを取り、それは寮史を証明する大事な資料(史料)だけど、廃寮後はどうするつもりかと問い合わせてはいたものの、当の本人たちは全然頓着していない様子。大学の資料館に入れられるならいれてもらいなさい、もし断られたら私が書類だけでも引き取ると伝えていたのだが、その後本人たちも引っ越しの準備などで忙しいのか、まったく連絡をもらえぬまま年度末をむかえてしまったのだ(電話すると言っていたのだが、、まあ学生さんなので仕方ないかと)。

 電話口での態度は至極恬淡としたものだったので、「異様に愛寮心の強いヘンな卒寮生の戯言と取られて、何の対策も取っていないままだったらどうしよう」と心配してはいたが、私としても八方手は尽くした末の結末だったので、「もしこれですべてが廃寮と同時に烏有に帰したとしても、後は私自身の思い出をたよりに記録の作成を進めていくしかない」と、ある意味吹っ切れた気分でいた。

 年が明け、少し時間ができたので、ハテあれはどうなっただろうかと思い大学資料館に連絡を取ってみたところ、上記の返答を得ることができたのだった。

しかも、寮生たちが持ってきた物だけではなく、資料館のスタッフ達自身でも廃寮後の寮内に足を運び、あちこちからめぼしいものを集めて引き取ってきたというではないか。

その数、曰く数百点。

GOOD JOB!!!!

 

今後

現在、当該収集品は燻煙処理を行い、収蔵のための整理を待っている状況のようで、いずれ整理が終わればリストを公表し、それから近いうちに展示なども考えているとのこと。

私の頭の中には紙資料のことしかなかったが、彼らは寮の正門にかけられていた表札やら、厨房に残されていた昔の食器やら、見学者用ネームプレートやら、寮内に残されていたアルバムなど、種々雑多な品物を幅広く集めてきてくれたという。多角的な視点から集めた史料が未来に残れば、「ありし日の寮のすがた」も立体的に残すことができるだろう。

やはり私一人で独断で進めず、資料館というプロを頼るように進言したのは間違っていなかった。

卒寮生で、寮生時代の記録を整理しているところだと説明すると、スタッフの方は電話口で丁寧に色々と教えてくれた。

その姿勢から、資料館サイドでも「寮の史料は貴重なもので、大学のためにも未来に残すべきものだと考えている」のが感じられたことが何よりうれしかった。

整理の完了はいつになるか分からない(同時に廃寮した男子寮の物も同じくらい大量にあるため)が、いずれ完了すれば、申請して閲覧することは可能らしい。一安心である。しかるべきところに収まってくれて本当によかった!しばらく伺うのは難しいだろうけど(なにしろここは遠い)、いずれ企画展でも開催の折には、ぜひ訪問したいと思ったのであった。

 

museum.w3.kanazawa-u.ac.jp

なお、資料館のサイトをlinksにも貼ったので、参照されたい。

76 寮祭について prologue

prologue

卒寮して10年が経とうとしている(注:本記事の元原稿が書かれたのは平成30年11月である)。あれほど濃密だった寮生時代の記憶も時とともに薄れようとしているので、せめて覚えている限りは書き留めておきたく、筆を執った。

寮生活の中には四季を通して様々な行事があったが、時期も近いので、ここからは特に寮祭について取り上げ、列記していこう。

 

寮祭とは

寮祭とは、学祭(金大祭)の時期に合わせて10月末〜11月頭の時期に、主に寮で行われる数日間にわたる学生のお祭りである。ここでは筆者が主に関わっていた女子寮での寮祭について記していく。

寮祭を運営するのは主に1〜2回生であり、北溟、泉学、白梅3寮それぞれに実行委員会を立ち上げていた(開催時期は3寮同時であるものの、祭自体は一部の共同イベントを除いて各寮でそれぞれに執り行われていた)。実行委員会はいくつかの部局で構成されていた。それぞれに企画を担当することになる。ここにほぼ全ての1回生及び2回生が所属し、部局は縦割り組織として活動していくのだが、部局ごとに拘束時間や責任の軽重が異なっていた(特に負担が大きいとされた当日部局、事前準備に大変時間と手間がかかるディスコ部局はやりたがる人が殆どいなかった。このあたりについては、後述しよう)。

56 おいしくない寮食のこと

 わたしは入学と同時に女子寮に入寮した(2000年代半ばとしておこう)。食堂という場所はあり、その奥にそれなりの規模の厨房があったが、その時にはすでに寮の食堂というものは機能していなかった。元は炊夫さんがいたようだが、入寮当時から市内の給食業者にお弁当を注文するシステムになっていた。

 注文ができるのは1日のうち夕食のみであり、毎月決まった日までに、各寮生は来月分の注文を注文用紙に記入し、それを炊事委員がまとめて業者に送るというシステムだったと思う。当時はご飯とおかずのセットで390円だった。1つメニュー表が備え付けられており、カレーなど人気のメニューの日だけはいやに注文食数が多かった記憶がある。

 給食業者は、毎日昼すぎごろに弁当の入ったコンテナと味噌汁の鍋を厨房の冷蔵庫に入れていった。夕方以降に寮生が帰寮し、食事時になると、冷蔵庫から自分の分を三々五々取り出し、備品のレンジでチンして食べていた。味噌汁は小さなアルミの、給食用みたいな鍋に入っており、最初に喫食する者が、食堂片隅にあるコンロで加熱しておくのがルールとなっていた(その後、さらに喫食数が減ると、味噌汁も鍋での提供がなくなり、一人分ずつケースに入ったのが温蔵庫に入れられているという方式に変わった)。

 ちなみに、この弁当は回収容器に入っており、回収がおぼつかなくなることから、食堂以外の場所で喫食することは禁止されていた。

(このあたりのシステムについての詳細は、いずれ別に立項する予定)

 

 入寮直後で生活がバタついていた時こそ、新入生たちは皆この寮食を注文し仲良く食堂で食べていたが、新歓も落ち着き、サークルや勉強で忙しくなるにつれ、自炊したり大学の食堂で済ませてしまったりするようになり(弁当自体がそれほどおいしくなかったということもある)、夏ごろには私も含めたほんの数人しか、恒常的に注文する者はいなくなっていた。

 色々なメニューがあったが、忘れがたく、お気に入りだったのはカレーであった。ルーが1人分ずつ、いつから使っているのか不明なほどレトロなイラストの付いた赤いタッパーに入っており、温蔵庫の中でわたしを待っていた。業者が一緒に持ってきてくれる、昔風で薄っぺらいアルミ製のスプーンも、レトロ可愛いタッパーも、なぜか無性に私の胸をキュッとさせるアイテムだった。

 その寮食であるが、毎日12:30を超えると、本来の注文主の所有を離れ、他の者が自由に食べていいという不文律があった。このため、日ごろから食費でピーピーしているやつらは、12時半近くなるとゾロゾロと食堂に集まってきて、時計の時刻が30分を指すやいなや冷蔵庫の中を漁って、弁当の中身だけを持参した自前のタッパーに移し替えて持ち去っていった。この行為を、寮用語では「ハイエナする」と言ったものだった。

入寮時に持たされた電気ポットのこと


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 寒い冬の夜は、今でも湯を沸かし、小さな湯たんぽを作る。一人でキッチンに立ちヤカンを火にかけていると、冬の夜の自炊室のことを思い出してしまう(なぜか、思い出の中は冬が多い)。

 入寮当時、母が持たせてくれた数少ない持参品の中に、小さな電気ポットがあった。入寮前の見学で、部屋の中に流し台やコンロがないのを心配した母が、せめてお湯くらいはいつでも部屋の中で使えるように、と用意してくれたのだった。しかしいざ入寮してみると、各自炊室には何代か前の卒寮生が寄贈したティファールの立派な湯沸かしポットが備え付けており、お茶を入れるのも湯たんぽを作るのも大体これで足りてしまった。ただし、冬は極寒の廊下に長居したくなかったので、このポットはそこそこ役に立った。

 容量は一リットル足らずで、てっぺんに丸い青いボタンが付いており、これを押せば沸き、沸くとポコンと音を立ててボタンが戻る、単純な機構のモデルである(何とか、似たモデルの写真をネットで拾った)。生まれてはじめての一人暮らしで、はじめて持つ、自分だけの家電。ささやかだが、それがどことなく誇らしく、うれしかったのを覚えている。

 結婚し今の住まいに越しても、このポットは大事に持っていたが、とうとう昨年、しまいこんだままであったために思い切って処分した。ご苦労さまでした。

35 寮の中庭の白梅のこと

 2月も半ばを過ぎれば、寮の中庭の白梅にもちらほらと白い花が咲いた。北陸では、2月半ばは一番雪深い頃である。ぼたぼたと降る重たい雪が、花に枝に積もるのを、居室の窓から眺めていた。あの頃はよく窓から外を眺めていたっけ。

 昨年春に静かにその歴史に幕を下ろした寮だが、もう取り壊し工事は済んでしまったのだろうか。あの白梅の木も、建物と一緒に撤去されてしまったのだろうか。あの中庭には他にも、管理人兼ボイラー技士のおじさんが時々世話をしていた草花も植わっていたはずだが、それも全部なくなってしまったのだろうか?